「ほったまるびより」 生々しい身体、連続する日常/非日常
先日、国立新美術館の文化庁メディア芸術祭に行ってきたので、そこで感じたことを忘れないようにここに記しておきたい。
ダンサーであり映像作家である監督がつくった「ほったまるびより」という短編映画を目当てに行ったのだが、その映像を目にして衝撃を感じた。
「ほったまる」というのは、「ほうっておくとたまるもの」の略らしい。
それは、私たちの身体の断片、剥がれた皮や、切り落とされた爪、生活に漂う匂いなどなど、様々なものである。
映画に登場する踊り子たちは、そのような「ほうっておくとたまるもの」を求めて暮らし、それらを共有し、楽しんでいる。
彼女たちの姿を見て、まず感じたのは、私たちの日常にあたりまえに存在する他者の身体への希求である。
ひとのからだに触れたい、感じたいという素直な欲望がそこには映し出されている。
それは、身体そのものではなく、身体のメディア(=拡張された身体)にまで及ぶのである。
切り落とされた爪や、抜け落ちた髪の毛を集め、それを所有することで、その人自身への所有欲を満たすということは、とても変態的で、フェティシズムを感じるが、その欲求は私たちの日常と連続的につながっているのである。
そしてこの作品は、私たちの日常に潜む狂気と暴力性をもまざまざと表現している。
相手と融合したい気持ち、身体を所有し支配したいという感情の爆発、抑えきれない身体、声にならない叫び、それらを清々しくも幻想的に表現している。
意表をつくカット、カメラワークが切り取る生々しすぎる身体は私たちが日頃見落としがちなありのままの皮膚感覚と現実を伝えてくれる。
主観と客観が入り混じり、平穏と衝撃が入れ替わる構成に何度も驚かされた。
http://hottamaru-sonoieno.tumblr.com/
「ヘルタースケルター」身体をめぐる欲望と消費
自己満足ではあるが、今日は、自分の女性としての醜い部分を晒しつつ、女性をめぐる消費、及び欲望について書いていきたい。
女性性とは、いわゆる「女性らしさ」のことだ。
女性性を維持するには色んなコストがかかる。
たとえば、美肌を維持するための基礎化粧品の数々、そして日々のメイク用品。
サラサラな髪を維持するための美容院のトリートメント代。
お金だけじゃなくて、時間もかなりかかる。
たとえば、脚を少しでも長く見せようとハイヒールを履くには、痛みも伴う。
足の皮がズル剥けになってしまったり、人によっては外反母趾や慢性的な腰痛を引き起こしてしまったり、身体にかかるコストも大きい。
そして、昨今の女性としての美しさには、「ナチュラルさ」が大事なのである。
「ナチュラルさ」を作り上げるなんていうのは、なんて矛盾した言葉だろうと思うが、それはつまり、努力しながらも努力の痕跡を見せないことと同義なのだ。
たとえば、近頃流行りのまつげエクステ、そして美容脱毛、それらは単に日頃の手間暇を短縮することに価値があるだけではない。
ちょっとでも目を大きく見せようと必死に重ね塗りしたマスカラや、カミソリをあてすぎて傷んだ肌はみっともないのである。
なぜなら、美しさを手に入れるための「不自然さ」がそこにあり、そのような痛々しさを目にしたい人間は少ないからだ。
生まれながらに美しいことを装うかのように、私たちはコストをかけて色んな施術を身体に施していく。
なぜ私たちはこのようなことをしているのだろうか。
社会が要請する女性規範がそうだから、と言い切ってしまうのは簡単だが、私は実感として、そうは言い切れないように感じている。
そこまでしていない女性もたくさん存在していて、彼女たちも女性として社会に認められ、結婚したり母親になったり、充実した幸せな人生を送っていたりするからだ。
私は、女性が女性性を過剰な努力で演出すること、つまり、自分の身体を商品化することには、社会の強制力以外の原理が働いているように思えるのだ。
中学生の頃、私は鏡を見るだけで憂鬱な気分になるような、地味でクラスでは全然目立たない存在だった。
他人から「かわいい」と言われることも少なかった。
しかし、ダイエットに成功し、友達から化粧の仕方を教わり始めてから、周囲からとてつもない手のひら返しをくらい、なんだか世界の景色が変わったような気がしたのだ。
嬉しさと同時に大きな恐怖を感じた。
自分が自分でなくなるような恐怖と、自分が美しさを失うとみんな自分から離れていってしまうような、そんな恐怖を覚えた。
周りの人の言葉のなにを信じていいのか分からなくなったし、褒められてもどこか複雑だった。
しかし、他人から認められた嬉しさは想像を超えるほどに大きい。
それは麻薬みたいなものだ。
与えられる報酬と、恐怖からくる強迫観念から、不安定な自己像を抱えたまま、自分磨きにのめり込み、自分の身体を商品化していく。
かなり大袈裟ではあるが、原理としてはまるでヘルタースケルターである。
美しさへの執着は、規範というよりは、大きな欲望がもたらす認知の歪みのようなものである。
しかし、現実がある程度その欲望や認知の歪みを下支えしているのも確かであるから、簡単には断罪できないのだ。
ヘルタースケルターは、ただのフィクションとして見るよりも、現実の表象として見ることができる。誰しも「りりこ」(=沢尻エリカ)と似たような側面、そして葛藤を抱えている。
湯山玲子:「何故神はまず若さと美しさを最初に与えそしてそれを奪うのでしょう?」というヤツ。これは古今東西すべての女が必ずや人生で格闘する十字架ですから。
……
上野千鶴子:「若さと美しさ」を求めて、誰の中にも“タイガー・リリィ(=りりこ)”がいると言っていい。タイガー・リリィのミニチュア版が日常生活に拡散して、もはや逃げ場がなくなってしまった。世の中にダイエットをしていない女はいないし、整形まではしなくてもメイクをしてない女はいない。コスメショップにはつけまつげ、ネイルなど、つくりもののキラキラがあふれている。
本来女性の価値は身体的な美しさだけではない。
昔のフェミニズムのように、美しさへの過剰な執着は社会からの抑圧の産物であるとも言い切れない。
それは、人々の欲望と消費そのものだ。
そして今や、この問題は女性だけのものではない。
時代が移ろいゆき、男性でも自分の身体に様々な施術を施すのが当たり前の時代になりつつあり、このテーマは男性をも覆い尽くそうとしている。
こうやって論じつつも、私は明日もヒールを履き、時間をかけて化粧をしてから街へ繰り出す。
それは誰かに強制されたものではない。
自分の中の正直な欲望であり、そこから抜け出したいとも願わないのだ。
しかし、欲望が肥大化しすぎて自分の首を絞めてしまわないように、人間というものをもっと相対化して見なければならない、と感じている。
「大事なことはそれだけじゃない。」
そうやって自分に言い聞かせながら正気を保つのである。
「キャラ」が重い
今年のセンター試験国語現代文の評論では、土井隆義さんの『キャラ化する/される子どもたち』の一部が出題された。
このような馴染み深い先生がセンター国語に登場するなんてなかなかおもしろいなぁと思い、現代文評論に目を通してみた。
今回の評論は、現代の若者たちがキャラを演じることについて書いていた。
こうしてみると,キャラクターのキャラ化は,人びとに共通の枠組を提供していた「大きな物語」が失われ,価値観の多元化によって流動化した人間関係のなかで,それぞれの対人場面に適合した外キャラを意図的に演じ,複雑になった関係を乗り切っていこうとする現代人の心性を暗示しているようにも思われます。
振り返ってみれば,「大きな物語」という揺籃のなかでアイデンティティの確立が目指されていた時代に,このようにふるまうことは困難だったはずです。付きあう相手や場の空気に応じて表面的な態度を取り繕うことは,自己欺瞞と感じられて後ろめたさを覚えるものだったからです。アイデンティティとは,外面的な要素も内面的な要素もそのまま併存させておくのではなく,揺らぎをはらみながらも一貫した文脈へとそれらを収束させていこうとするものでした。
たしかに今の時代、アイデンティティなんてものをもはや意識することは少ないのかもしれない。
みんな色んな場所で色んな人格を演じて、それで良しとしている。
けれども私は、どうもそのやり方に違和感を覚えるタイプだった。
表面上はなんだかんだ取り繕っていても、心のどこかではいつでも偽りなく自分らしくいたいなんて随分子どもっぽいことを未だに考えていたりするのである。
他人に自分のことでちょっとした嘘をつくことも苦手である。
そしてなにより、自分が不必要に周囲にキャラ付けされて不愉快な思いばかりしてきたこともある。
人は外見や、声のトーン、表情などの第一印象で、否が応でもキャラ付けされてしまうものである。
それを上手くコントロールできる人間は、周りに対して自分のキャラを上手く演じれるのかもしれないが、私はとてもそれが苦手だった。
だから、第一印象でパッと本来の自分とは全く違うキャラクターにされることは不本意だった。
「本来の自分」なんて言っているあたり、私はこのご時世における「アイデンティティ」信仰者なのだと思う。
今日の若い世代は、アイデンティティというような言葉で表されるような、一貫したものではなく、キャラという言葉で示されるような断片的な要素を寄せ集めたものとして、自らの人格をイメージするようになっています。……彼らは、複雑化した人間関係を回避し、そこに明瞭性と安定性を与えるために、相互に協力し合ってキャラを演じあっているのです。
なるほど、つまり、自分は上手く「キャラ」を扱えていないんだな、と思った。
「今日の若い世代」失格である。
そもそも、「キャラ」というもので、人をあたかも理解したように感じたり、また理解したふりをして演じあってるコミュニケーションを、本当にみんな欲しているのだろうか。
「若い世代」失格の私は、そういうことをして分かったふりをすることにはほとほと嫌気が差しているのである。
どうせ知り合うなら、表面をなぞって分かったふりをするよりも、ちゃんと心から出てくる言葉を交わしたい。
そしてその人のアイデンティティ=自己同一性を分かちあいたい。
みんなが、色んな場で背負っている「キャラ」。
でもそれってなんだかたまに荷が重くならないのかな、と考えてしまう。
少なくとも、私は重くて嫌になってしまったりする。
だから、自分の前では外して欲しいな、なんて思うのだった。
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規範意識と自傷願望
先日卒論の話を少ししたが、私が社会学をやっていて、トピックにしがちだったのは「規範意識」についてだった。
それはおそらく自分の経験からくる興味だったのだと思う。
私は、自分がいわゆる社会規範から外れた人間だと、小学校の頃から思っていた。
自分のマイペースすぎる性格、人種問題(クウォーター)、また極度のコミュ障(授業中に朗読ができないレベル)などのため、なんだか学校では先生や友達にしょっちゅう咎められるし、でもなんで自分が怒られなきゃいけないのかもよく分からなかった。
学校のルールにも、友達が言ってる「普通」にも疑問を抱いていて、心の中でいつも文句を言っていた。
でもそれと同時に、自分への自信を失っていた。
がんばって強がっても、私は結局他人から認められない人間なんだ、って心のどこかでずっと思っていた。
規範意識を嫌っていた自分は、そこから逸脱したいと思っていたし、逸脱した自分を誰かに受け入れて欲しいと思っていた。
でもそんなことばかり考えていた自分は、余計に規範意識にがんじがらめにされていた。
その後、私は小学生にして中国に渡り、約2年半もの間、現地校に通うことになった。
そこでも、日本人という理由で、好奇な目で見られ、訳もなく罵倒されたりした。
でも意外にも日本にいる時よりは平気になっていた。
鈍感力を身に付けたのもあるが、それはおそらく、咎められる理由が「人種」だけだったから。
日本に居た時は、一挙一動、何気ない言葉、そんなものを全て監視されて咎められている気分だったからだと思う。
日本に戻ってからは、両親の離婚、中国帰りで常識知らず、などの理由から余計に「普通」から逸脱している意識が自分を襲った。
なんとか人並みにならなきゃと思っていた自分は、自分の経歴を極力隠し、心の痛みを隠し、そして背伸びして強がって、がんばって身の周りの人間の言葉に興味のないふりをした。
インチキな自己肯定もたくさんした。
自分をも騙し始め、訳の分からない状態である。
そんなことしながらも、いい子ちゃんで居たかった(あるいは、いい子ちゃんで居なきゃいけないと思った)ために、自分像が分裂したり、漠然とした恐怖や不安に襲われたりして、心と頭が乖離していた。
心が悲鳴をあげているのを頭で無理矢理押さえつけた。
その頃から、なんだか悪いことに憧れ始めた。
タバコも吸いたかったし、溺れるほどお酒も飲みたかった。リストカットやどうでもいい人とのセックスもしてみたかった。
なぜか分からないけれども、そんなことを夜中に衝動的にしたくなった。
中途半端にもがいている自分を嫌悪して、堕ちるとこまで堕ちてみたかったし、同じくらい他人を傷つけてもみたかった。
結局全部押さえつけて、ひとつもしなかったところが、また自分らしいのだが。
なんだかんだ上手くごまかしながらも、高校時代は良い人たちに恵まれて楽しく過ごすが、こうやって心の奥底に眠った規範意識と自傷願望を捨てきれないまま、表面上はインチキな自己肯定をしながら、私は大学へと入学した。
そこで出会ったのが社会学という存在だった。
社会規範というものがもたらす暴力、そして規範自体が相対的だということを自分の人生をもって体感していたから、なんだか引き寄せられるように勉強に夢中になった。
大学での勉強が、今まで過ごしてきた教育機関の中で、飛び抜けて一番楽しかった。
結局、卒業論文では、自分が苦しめられてきたジェンダー概念、家族概念、自分が見失った父親概念などを題材にした。
でも、そんなことをしても自分を救えるわけでもない。
単純に興味があったから研究をしたまでだ。
でも今、私は以前に比べて、健やかになってきたのではないか、と感じている。
そうなったのも、大学に入ってから、自分の殻を抜けだして、色んな人を愛し、また愛され、騙し、騙され、傷つけ、傷つけられ、そして誰かを少し救いながら、自分も少し救われたからであった。
色んなトライアンドエラーを繰り返していたら、なんだか自分のことやこの世の条理が少し見えてきたのである。
学問は楽しくて為になるけど、人との出会いやぶつかり合いはもっと為になるものだった。
最後に笑うのは自分だと、そう信じて生きていきたい。
「性」を語ることの難しさ
先日、やっと卒業論文を提出することができた。
1年という長いスパンの中で、卒論の完成に向けてあれこれと準備をしてきたので、なんだか感慨深い。
反省点は色々とあるけれども、今回一番自分を褒めてあげたいのは、一度も徹夜をしなかったことだ。今まで論文にせよ課題にせよ、〆切に追われて火事場の馬鹿力で乗り切ることが多かったが、今回は計画的に執筆していくことができた。
さて、卒論で私が主題としていたのは、テレビドラマを分析していくことで現代の父親イメージを探ろうというものである。
ジャンル的には、ジェンダー学、家族社会学、メディア論、歴史社会学が入り混じったようなもので、これといった先行研究もなかったのでなかなか苦労した。
大学で社会学専攻に属してからは、歴史社会学をベースにカルチャー論や映画批評のゼミを経験してきたが、最終学年で一転、ジェンダー学や家族社会学の世界に足を踏み入れることになった。
そこで直面したのは、「性」を語ることの圧倒的な難しさだった。
「女らしさ」「男らしさ」は生物学的に所与のものではなく、社会によって作られてるものだという考え方をジェンダー学は基盤にしているが、
国家戦略、司法、戦争体験、職業労働、マスメディア、学校コミュニティ……
社会のあらゆる要素が相互に作用し合うダイナミクスの中でジェンダー概念は構築されているから、どこからどう語っていいのか分からない。
またジェンダー概念は私たちの自意識や生活そのものであり、語る対象としてはあまりにも自分たちに「近すぎる」のだ。
物事を語るには、自分の主観から距離を置いた俯瞰的な視点が必要だが、「性」を語るときに、どうしても自己との距離のとり方が分からない。
だから、この1年間、ジェンダーや家族についてたくさんの文献を読み、たくさん思いをめぐらせてきたが、まだ自分はどこか釈然としていない。
色んな視点からの考え方をインプットしていくのは非常に楽しいのだが、いざ自分が「性」を語るとなると、それはあまりにも難しい。
「性」を語るのは、自分の生き方や思想を語ることと同義な気がしてしまう。
それゆえに、語ろうとすると、深く考え込んでドツボにはまってしまったり、やけに感情的になってしまったり、すべて自分ごと化してしまう。
なかなかフラットな目線で語れないのだ。
だからこそ、今回の論文執筆は難しかった。
幸いなことは、自分には明確に「父親」と呼べる類の人間が存在しなかったことであろう。
だから、父親については、なんだかフラットに上手に語れたような気がするのだった…
信仰と言葉の力
私は昔から迷信的なことが嫌いだ。
そんな根拠のないことに自分の行動や考えを縛られてたまるか、と小さい頃から思っていた。
もちろん宗教を信ずる意味も分からなかった。
そんなものに人生の選択を決められるなんて冗談じゃない、と思っていた。
しかし、ある時気付いた。
「神」の存在を信じるか否かは別として、みんな自分の中に何かの「信仰」を持って生きてるということに。
それは道徳とも呼べるし、信条とも呼べるし、個性とも呼べる。
人はなんらかの「フィルター」を通して現実を認識し、自分の行動指針を自分なりの言葉で紡いでいくのだ。
それは「信仰」そのものなのである。
宗教は、その「信仰」が形式化され言語化され、社会文化と深く結びつき、人々に共有された形態のものにすぎない。
それは私たちがなんとなく日本人同士で共有している「常識」や「正義」となんら変わりないものだ。
ただ、日本では明確に教典化されていないだけである。
しかし、社会が多様化していくことによって、「常識」は揺らいでいく。
国家全体でひとつの普遍性を保つということは現代社会では非常に困難である。
多様化している社会を生きていくのは簡単なことではない。
たとえば、多民族国家の国であれば、自分の人種、民族、宗教をあらかじめ相手に呈示することで、簡単に相手の大枠を認識することができるが、
普遍性の神話がまだ解体しきっていない日本では、自分の信仰を他人に理解してもらうのはとても難しかったりする。
思想が多様化しているにも関わらず、みんながみんな一緒だと言う神話がなんとなく共有されてしまっているから、認識の大きな齟齬が生じるのだ。
自分の基準で、それは「常識」的ではない、と他人に言ってしまったり。
でもそれは、キリスト教信者がイスラム教信者を「常識」的でない、と切り捨てることとなんらか変わりないのだ思う。
個々人の違いを明瞭に、そして簡潔に言語化できない分、コミュニケーションは難航する。
こんな状況が、自分たちの身の周りでよく生じているように思う。
社会で人々が共有するひとつの「信仰」(=「大きな物語」)が、時代が移ろいゆくにつれてどんどん解体してしまって、今は自分の「信仰」は誰かが与えてくれるものではなく、自分で見つけだしていかなくてはいけない。
私はなかなか見つけられなくて、見つけてもそれに上手く従えなかったり、裏切られたりして、右往左往していた。
どうしていいのか全然分からなくてたまになんだか絶望的な気分になった。
その時にはじめて宗教の存在意義を認識することになる。
なにかを信じれることって、精神にとって良いことなのかもしれないなぁ、と。
今更自分が確固たる「信仰」を見つけられる気はしないけど、最近言葉の持つ力を再認識し始めている。
自分が発する言葉、他人が自分に浴びせかける言葉、それはいつの間にか自分を規定する大きな存在になっていることを。
だからこそ言葉を大事にしなければならない、と考え始めた。
そうやって考え始めてから、心はなんだか上向き調子だ。
自分の発する言葉が、自分の未来を作っていくのかもしれない。
そして自分の未来に興味がない人間の言葉に、一喜一憂するのは、結果的に自分を苦しめる。
昔当たり前に考えられていたことに、また一周回ってたどり着いたような気がした。
こんな些細なことも、きっと自分の「信仰」のひとつなんだろうなぁ。
自分をこんな風に、迷ったり気付いたりして形作っていくのは難しいけれど、
でもひとつのコミュニティに土着することを知らない私は、なにかのコミュニティの思想を鵜呑みにすることなく、こうやって色々傷ついたりしながらも、遠回りして生きていくしかない。
だって私の経験も、私の見えている世界も、私だけのものなのだから。
自分で選んでいくんだ。
そんなことを思った。
生存権はお金で買う時代へ
5日前、軽井沢で起きたスキーバス転落事故が私に与えた衝撃は大きかった。
亡くなった方の中には、私の直接の友人はいなかったけれども、私の仲の良い友人はこの事故によって3人も友人を亡くした。
同じ大学生、同じ学年、コミュニティも似通っており、共通の友人もいる。そんな彼らのニュースを聞くたびに、SNSで目にするたびに、とてもつらい気持ちになった。
自分の中で湧き上がる色々な負の感情を一旦傍に置いて、他の視点からこの事故について語るのは、正直まだ憚られるべきことかもしれないけれども、この事故が私に思い起こさせるものは非常に多い。
既にニュースが幾度も伝えているように、この事故にはバス業界の不健全な構造、業界規制緩和、利益至上主義の追求による大きな闇が潜んでいる。それは日頃日本で生きる消費者としてはあまり想像することのない事情かもしれない。
日本では、サービスはお金を払った対価であるという意識すら少ない。
数百円しかお金を使わなかったコンビニでも、従業員はみんな等しく丁寧に接してくれるし、日本で利用するあらゆるサービスは一見とても均質で優良なものだ。
しかし、ひとたび海外に出ると、その常識は通用しなくなる。
私は中国とアメリカで生活していたが、そこでは良いサービスとは全てお金によってのみ手に入るものであった。
特に中国は日常がトラップまみれだ。安全なサービス、安全な食品、優良な医者は全て意識して選んで特別な対価を払ってはじめて手に入るものである。
アメリカでも、安全な住環境、周到な医療保険は全て特別な対価によって実現するものだ。
Michael Sandel: Why we shouldn't trust markets with our civic life
マイケル・サンデルは市場経済に市民生活を託すことにこのようにして警鐘を鳴らしている。
アメリカの大学で社会学を学ぶ中で、アメリカの社会構造が生み出した闇を色んな形で目の当たりにした。
書籍で、映像で、友人の経験談で…
生命すらもお金で買える社会がすぐ身近にあった。人生とはお金そのもののような気すらした。市場経済の原理が働くことの意味をまざまざと見せつけられた1年間だった。
日本では、国民皆保険制度もまだ機能しており、一応形式上はまだ福祉国家と呼べるくらいには政府の力は大きい。
しかし、アメリカのような社会に次第に近づいていってるのは確かである。
日本はかつて世界で最も成功した社会主義国家だと呼ばれていた。
小泉政権以降、どんどんリベラルな道に突き進んでいるが、人々の意識は依然社会主義的なままである。
日本がこの方向性に進むべきか否かは、ちっぽけな私にはまだまだ到底分からないことだし、この場では議論したくないが、
確実に言えることは、人々の意識だけが置き去りにされていて、社会に潜む大きな歪みにまだまだ気付けていないということだ。
これからもきっと社会は変わっていく。
こうやって大きな犠牲を産み出しながら、人の人生をいとも簡単に変えていきながら…
その中で、私たちはきっと考えることを迫られるだろう。
そして私たちの考えも変化していくことを迫られるのである。