「キャラ」が重い
今年のセンター試験国語現代文の評論では、土井隆義さんの『キャラ化する/される子どもたち』の一部が出題された。
このような馴染み深い先生がセンター国語に登場するなんてなかなかおもしろいなぁと思い、現代文評論に目を通してみた。
今回の評論は、現代の若者たちがキャラを演じることについて書いていた。
こうしてみると,キャラクターのキャラ化は,人びとに共通の枠組を提供していた「大きな物語」が失われ,価値観の多元化によって流動化した人間関係のなかで,それぞれの対人場面に適合した外キャラを意図的に演じ,複雑になった関係を乗り切っていこうとする現代人の心性を暗示しているようにも思われます。
振り返ってみれば,「大きな物語」という揺籃のなかでアイデンティティの確立が目指されていた時代に,このようにふるまうことは困難だったはずです。付きあう相手や場の空気に応じて表面的な態度を取り繕うことは,自己欺瞞と感じられて後ろめたさを覚えるものだったからです。アイデンティティとは,外面的な要素も内面的な要素もそのまま併存させておくのではなく,揺らぎをはらみながらも一貫した文脈へとそれらを収束させていこうとするものでした。
たしかに今の時代、アイデンティティなんてものをもはや意識することは少ないのかもしれない。
みんな色んな場所で色んな人格を演じて、それで良しとしている。
けれども私は、どうもそのやり方に違和感を覚えるタイプだった。
表面上はなんだかんだ取り繕っていても、心のどこかではいつでも偽りなく自分らしくいたいなんて随分子どもっぽいことを未だに考えていたりするのである。
他人に自分のことでちょっとした嘘をつくことも苦手である。
そしてなにより、自分が不必要に周囲にキャラ付けされて不愉快な思いばかりしてきたこともある。
人は外見や、声のトーン、表情などの第一印象で、否が応でもキャラ付けされてしまうものである。
それを上手くコントロールできる人間は、周りに対して自分のキャラを上手く演じれるのかもしれないが、私はとてもそれが苦手だった。
だから、第一印象でパッと本来の自分とは全く違うキャラクターにされることは不本意だった。
「本来の自分」なんて言っているあたり、私はこのご時世における「アイデンティティ」信仰者なのだと思う。
今日の若い世代は、アイデンティティというような言葉で表されるような、一貫したものではなく、キャラという言葉で示されるような断片的な要素を寄せ集めたものとして、自らの人格をイメージするようになっています。……彼らは、複雑化した人間関係を回避し、そこに明瞭性と安定性を与えるために、相互に協力し合ってキャラを演じあっているのです。
なるほど、つまり、自分は上手く「キャラ」を扱えていないんだな、と思った。
「今日の若い世代」失格である。
そもそも、「キャラ」というもので、人をあたかも理解したように感じたり、また理解したふりをして演じあってるコミュニケーションを、本当にみんな欲しているのだろうか。
「若い世代」失格の私は、そういうことをして分かったふりをすることにはほとほと嫌気が差しているのである。
どうせ知り合うなら、表面をなぞって分かったふりをするよりも、ちゃんと心から出てくる言葉を交わしたい。
そしてその人のアイデンティティ=自己同一性を分かちあいたい。
みんなが、色んな場で背負っている「キャラ」。
でもそれってなんだかたまに荷が重くならないのかな、と考えてしまう。
少なくとも、私は重くて嫌になってしまったりする。
だから、自分の前では外して欲しいな、なんて思うのだった。
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