信仰と言葉の力
私は昔から迷信的なことが嫌いだ。
そんな根拠のないことに自分の行動や考えを縛られてたまるか、と小さい頃から思っていた。
もちろん宗教を信ずる意味も分からなかった。
そんなものに人生の選択を決められるなんて冗談じゃない、と思っていた。
しかし、ある時気付いた。
「神」の存在を信じるか否かは別として、みんな自分の中に何かの「信仰」を持って生きてるということに。
それは道徳とも呼べるし、信条とも呼べるし、個性とも呼べる。
人はなんらかの「フィルター」を通して現実を認識し、自分の行動指針を自分なりの言葉で紡いでいくのだ。
それは「信仰」そのものなのである。
宗教は、その「信仰」が形式化され言語化され、社会文化と深く結びつき、人々に共有された形態のものにすぎない。
それは私たちがなんとなく日本人同士で共有している「常識」や「正義」となんら変わりないものだ。
ただ、日本では明確に教典化されていないだけである。
しかし、社会が多様化していくことによって、「常識」は揺らいでいく。
国家全体でひとつの普遍性を保つということは現代社会では非常に困難である。
多様化している社会を生きていくのは簡単なことではない。
たとえば、多民族国家の国であれば、自分の人種、民族、宗教をあらかじめ相手に呈示することで、簡単に相手の大枠を認識することができるが、
普遍性の神話がまだ解体しきっていない日本では、自分の信仰を他人に理解してもらうのはとても難しかったりする。
思想が多様化しているにも関わらず、みんながみんな一緒だと言う神話がなんとなく共有されてしまっているから、認識の大きな齟齬が生じるのだ。
自分の基準で、それは「常識」的ではない、と他人に言ってしまったり。
でもそれは、キリスト教信者がイスラム教信者を「常識」的でない、と切り捨てることとなんらか変わりないのだ思う。
個々人の違いを明瞭に、そして簡潔に言語化できない分、コミュニケーションは難航する。
こんな状況が、自分たちの身の周りでよく生じているように思う。
社会で人々が共有するひとつの「信仰」(=「大きな物語」)が、時代が移ろいゆくにつれてどんどん解体してしまって、今は自分の「信仰」は誰かが与えてくれるものではなく、自分で見つけだしていかなくてはいけない。
私はなかなか見つけられなくて、見つけてもそれに上手く従えなかったり、裏切られたりして、右往左往していた。
どうしていいのか全然分からなくてたまになんだか絶望的な気分になった。
その時にはじめて宗教の存在意義を認識することになる。
なにかを信じれることって、精神にとって良いことなのかもしれないなぁ、と。
今更自分が確固たる「信仰」を見つけられる気はしないけど、最近言葉の持つ力を再認識し始めている。
自分が発する言葉、他人が自分に浴びせかける言葉、それはいつの間にか自分を規定する大きな存在になっていることを。
だからこそ言葉を大事にしなければならない、と考え始めた。
そうやって考え始めてから、心はなんだか上向き調子だ。
自分の発する言葉が、自分の未来を作っていくのかもしれない。
そして自分の未来に興味がない人間の言葉に、一喜一憂するのは、結果的に自分を苦しめる。
昔当たり前に考えられていたことに、また一周回ってたどり着いたような気がした。
こんな些細なことも、きっと自分の「信仰」のひとつなんだろうなぁ。
自分をこんな風に、迷ったり気付いたりして形作っていくのは難しいけれど、
でもひとつのコミュニティに土着することを知らない私は、なにかのコミュニティの思想を鵜呑みにすることなく、こうやって色々傷ついたりしながらも、遠回りして生きていくしかない。
だって私の経験も、私の見えている世界も、私だけのものなのだから。
自分で選んでいくんだ。
そんなことを思った。