私生活

プライベイトなタイムカプセル。

「性」を語ることの難しさ

先日、やっと卒業論文を提出することができた。

1年という長いスパンの中で、卒論の完成に向けてあれこれと準備をしてきたので、なんだか感慨深い。

反省点は色々とあるけれども、今回一番自分を褒めてあげたいのは、一度も徹夜をしなかったことだ。今まで論文にせよ課題にせよ、〆切に追われて火事場の馬鹿力で乗り切ることが多かったが、今回は計画的に執筆していくことができた。

 


さて、卒論で私が主題としていたのは、テレビドラマを分析していくことで現代の父親イメージを探ろうというものである。
ジャンル的には、ジェンダー学、家族社会学、メディア論、歴史社会学が入り混じったようなもので、これといった先行研究もなかったのでなかなか苦労した。

大学で社会学専攻に属してからは、歴史社会学をベースにカルチャー論や映画批評のゼミを経験してきたが、最終学年で一転、ジェンダー学や家族社会学の世界に足を踏み入れることになった。

そこで直面したのは、「性」を語ることの圧倒的な難しさだった。

 

「女らしさ」「男らしさ」は生物学的に所与のものではなく、社会によって作られてるものだという考え方をジェンダー学は基盤にしているが、

国家戦略、司法、戦争体験、職業労働、マスメディア、学校コミュニティ……

社会のあらゆる要素が相互に作用し合うダイナミクスの中でジェンダー概念は構築されているから、どこからどう語っていいのか分からない。

 

またジェンダー概念は私たちの自意識や生活そのものであり、語る対象としてはあまりにも自分たちに「近すぎる」のだ。

物事を語るには、自分の主観から距離を置いた俯瞰的な視点が必要だが、「性」を語るときに、どうしても自己との距離のとり方が分からない。

 

だから、この1年間、ジェンダーや家族についてたくさんの文献を読み、たくさん思いをめぐらせてきたが、まだ自分はどこか釈然としていない。
色んな視点からの考え方をインプットしていくのは非常に楽しいのだが、いざ自分が「性」を語るとなると、それはあまりにも難しい。


「性」を語るのは、自分の生き方や思想を語ることと同義な気がしてしまう。
それゆえに、語ろうとすると、深く考え込んでドツボにはまってしまったり、やけに感情的になってしまったり、すべて自分ごと化してしまう。

なかなかフラットな目線で語れないのだ。

だからこそ、今回の論文執筆は難しかった。

 

幸いなことは、自分には明確に「父親」と呼べる類の人間が存在しなかったことであろう。
だから、父親については、なんだかフラットに上手に語れたような気がするのだった…