人生において「書く」ことの意味とは
「書く」ことは、とても孤独な作業だ。
自分の考えを誰かに「語る」こととは、決定的な違いがあるように私は感じている。
「語る」ことは、他者を鏡のように、あるいは壁のように使って、自己を縁取っていく行為で、つまり自分を再認識したり、再定義していく手段のひとつだと思っている。
私は長らく、「書く」ことをやめて、「語る」ことに徹してきた。
それはなぜなら、自分の考えというものの不安定さや、儚さに気付いていたから。
平たく言うなら、自分に自信がなかった。
他者を使わないことには、自分の考えを決定づけることも、認識することさえも困難な気がしていた。
しかし、「書く」ことよりも多く「語り」始めた自分は、この数年間、自分の言葉をまるで失ったかのようだった。
どこまでが自分の言葉で、どこまでが他者の言葉なのか、その境界線は皮肉なことにひどく曖昧であったし、他者を鏡のように使うどころか、誰かの言葉に振り回されてばっかりだった。
自分を確立できないまま、だらだらと「語る」ことの、ある種の危うさをなんだか実感していた。
最近、自分の言葉を取り戻したいという願望が生まれつつある。
そして、それは「書く」作業と直結しているのではないか、と考えている。
「書く」ためには、孤独を愛さなくちゃいけない。
孤独に自分と向き合ったからこそ見つけたユリイカを愛して、それを積み重ねていく作業だ。
この孤独は、本当にひとりで引き篭もる孤独を意味するのではなく、日常に生じる多種多様なコミュニケーションをひとりきりで上手く消化していくことを意味している。
そのことをもっとどうにか上手くできないか、このブログを始めることで模索していきたい。