私生活

プライベイトなタイムカプセル。

「ヘルタースケルター」身体をめぐる欲望と消費

 

自己満足ではあるが、今日は、自分の女性としての醜い部分を晒しつつ、女性をめぐる消費、及び欲望について書いていきたい。

 

女性性とは、いわゆる「女性らしさ」のことだ。

女性性を維持するには色んなコストがかかる。
たとえば、美肌を維持するための基礎化粧品の数々、そして日々のメイク用品。
サラサラな髪を維持するための美容院のトリートメント代。

お金だけじゃなくて、時間もかなりかかる。

 

たとえば、脚を少しでも長く見せようとハイヒールを履くには、痛みも伴う。

足の皮がズル剥けになってしまったり、人によっては外反母趾や慢性的な腰痛を引き起こしてしまったり、身体にかかるコストも大きい。

 

そして、昨今の女性としての美しさには、「ナチュラルさ」が大事なのである。

「ナチュラルさ」を作り上げるなんていうのは、なんて矛盾した言葉だろうと思うが、それはつまり、努力しながらも努力の痕跡を見せないことと同義なのだ。

 

たとえば、近頃流行りのまつげエクステ、そして美容脱毛、それらは単に日頃の手間暇を短縮することに価値があるだけではない。

ちょっとでも目を大きく見せようと必死に重ね塗りしたマスカラや、カミソリをあてすぎて傷んだ肌はみっともないのである。

なぜなら、美しさを手に入れるための「不自然さ」がそこにあり、そのような痛々しさを目にしたい人間は少ないからだ。

生まれながらに美しいことを装うかのように、私たちはコストをかけて色んな施術を身体に施していく。

  

なぜ私たちはこのようなことをしているのだろうか。

社会が要請する女性規範がそうだから、と言い切ってしまうのは簡単だが、私は実感として、そうは言い切れないように感じている。

そこまでしていない女性もたくさん存在していて、彼女たちも女性として社会に認められ、結婚したり母親になったり、充実した幸せな人生を送っていたりするからだ。

私は、女性が女性性を過剰な努力で演出すること、つまり、自分の身体を商品化することには、社会の強制力以外の原理が働いているように思えるのだ。

  

中学生の頃、私は鏡を見るだけで憂鬱な気分になるような、地味でクラスでは全然目立たない存在だった。
他人から「かわいい」と言われることも少なかった。

しかし、ダイエットに成功し、友達から化粧の仕方を教わり始めてから、周囲からとてつもない手のひら返しをくらい、なんだか世界の景色が変わったような気がしたのだ。

嬉しさと同時に大きな恐怖を感じた。

自分が自分でなくなるような恐怖と、自分が美しさを失うとみんな自分から離れていってしまうような、そんな恐怖を覚えた。

周りの人の言葉のなにを信じていいのか分からなくなったし、褒められてもどこか複雑だった。

しかし、他人から認められた嬉しさは想像を超えるほどに大きい。
それは麻薬みたいなものだ。
与えられる報酬と、恐怖からくる強迫観念から、不安定な自己像を抱えたまま、自分磨きにのめり込み、自分の身体を商品化していく。
かなり大袈裟ではあるが、原理としてはまるでヘルタースケルターである。

 


映画『ヘルタースケルター』予告編

 

美しさへの執着は、規範というよりは、大きな欲望がもたらす認知の歪みのようなものである。
しかし、現実がある程度その欲望や認知の歪みを下支えしているのも確かであるから、簡単には断罪できないのだ。
ヘルタースケルターは、ただのフィクションとして見るよりも、現実の表象として見ることができる。誰しも「りりこ」(=沢尻エリカ)と似たような側面、そして葛藤を抱えている。

湯山玲子:「何故神はまず若さと美しさを最初に与えそしてそれを奪うのでしょう?」というヤツ。これは古今東西すべての女が必ずや人生で格闘する十字架ですから。

……

上野千鶴子:「若さと美しさ」を求めて、誰の中にも“タイガー・リリィ(=りりこ)”がいると言っていい。タイガー・リリィのミニチュア版が日常生活に拡散して、もはや逃げ場がなくなってしまった。世の中にダイエットをしていない女はいないし、整形まではしなくてもメイクをしてない女はいない。コスメショップにはつけまつげ、ネイルなど、つくりもののキラキラがあふれている。

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本来女性の価値は身体的な美しさだけではない。
昔のフェミニズムのように、美しさへの過剰な執着は社会からの抑圧の産物であるとも言い切れない。

それは、人々の欲望と消費そのものだ。

そして今や、この問題は女性だけのものではない。
時代が移ろいゆき、男性でも自分の身体に様々な施術を施すのが当たり前の時代になりつつあり、このテーマは男性をも覆い尽くそうとしている。

 

 

こうやって論じつつも、私は明日もヒールを履き、時間をかけて化粧をしてから街へ繰り出す。

それは誰かに強制されたものではない。
自分の中の正直な欲望であり、そこから抜け出したいとも願わないのだ。

しかし、欲望が肥大化しすぎて自分の首を絞めてしまわないように、人間というものをもっと相対化して見なければならない、と感じている。


「大事なことはそれだけじゃない。」

そうやって自分に言い聞かせながら正気を保つのである。

 

アイデンティティ

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